2019/03/03

Rie’s Episode:8

セニョーラヒロコが天国へ旅立って今度の夏で5年目・・・。
ここへきてようやく表現できるような気持ちになりました。
すべてのことは書ききれないでしょうが、最期の時に向かった日々のことを綴ってみたいと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2014年の夏、母が亡くなりました。
 
兄と私、2人の子供を1人で育ててくれた母。
その時代の「離婚」は今よりもっと大変なものだったと思います。
 
癌が発覚して余命1年と知らされ・・・そこで母の選択していった「終わりに向かう生」は彼女らしいものでした。
がんの種類、ステージ、治療法についてを確認した上で、治療はせず緩和ケアを中心にしていく方向で残りの人生を決めました。
母の意向を汲んで、ネットで探して偶然みつけた丘の上にある素敵なホスピス。
まるでヨーロッパのホテルのような造りはメキシコのリゾートホテルを思い出させてくれました。
初めて見学を担当してくれたソーシャルワーカーの方とも運命の出会いのような縁を感じ、この病院の理念と母の思いは一致したものだったので、迷う事なくこのホスピスにお世話になることを決め手続きをしました。
(ここは「縁と運があって実現する」というような・・入るのが難しいということはずいぶん後になってから知りました)
 
 
 
 
 
とにかく、このホスピスへの診察を確保するには、大学病院で検査をして「癌である診断書」をもらわなければなりませんでした。
私はというと・・既に決定していた個展のために、表面上は変わらず冷静に作品制作するなかで、あらゆる検査に付き添う時間を捻出し、この現実に向き合うことに必死でした。
癌だと診断するためにあれほど様々な種類の検査をやらなければならない、ということも初めて知りました。
レントゲンをはじめ、CTやMRIでほとんど確実にガンだとわかっているのに、日本の医療はさらにペット検査などを強いてきます。
「ペット検査」というもの自体も初めて知り、「放射能を飲む」という事実に驚きました。
また、「細胞芯を取る」という、検査をすることで死ぬかもしれないことがあるものですら大学病院側は「当然のこと」のように、署名捺印が必要な”もし検査中に死んでも文句言いません書類”(苦笑)が渡され、どんどん事務的に進められていきます。
限られた時間の中で、母にとって何がいちばん大切なのかを判断すること。
それは、”現代日本医療の仕組み”という現実に対して、言われるままに病院や医師が示すレールに乗るのではなく、常に意識をクリアにして、目には見えない大事なことを感じとって「その時の最善を決断していく」ことの連続でした。
最終的な「細胞芯を採るための検査入院」は、本当に気が進まないものでした。
当日の朝、署名捺印の書類を前にして母と二人して悩みに悩んでいました。
気が重く、どうにも嫌な予感がぬぐえないでいました。そこで「ちょっとラジオでもつけよう!」と、スイッチを入れた途端に「嫌なことはやらなくていいのです」という瀬戸内寂聴さんの言葉がラジオから流れてきたのです。
これを聞いて2人して笑ってしまい、「そうだよね!」とスッキリと判断することに。
こうして土壇場でキャンセルして(苦笑)、ようやく担当医にホスピスに入るための診断書と必要書類を書いてもらう方向へこぎつけたのでした。
 
 
 
 
 
 
そして、母は1週間に一度の「ホスピス外来」へ1人で通う、という日常が始まりました。
元気なうちからホスピス外来をキープできたことは最善の流れでした。
穏やかに普段の日常生活の中にこの通院が加わった、ということならよかったのですが・・・この前の年(まだ癌が発覚する前)、突然兄が2世帯住居を建てると言い出しました。
住み慣れた家から引っ越さなければならなくなり、癌を抱えながら荷物を整理することに・・・。
母はまるで自分で自分の遺品整理をするようなことになっていきました。
兄は兄の思いで母へ新しい家を建てたかったのでしょうが・・・結局、この引っ越し作業が体調悪化の引き金になったのでした。
新しい家へ引っ越した翌日、母は起き上がれなくなり・・・1週間後には緊急入院することになってしまったのでした。
 
 
 
 
 
 
その後、一時退院できるまで体力が回復したのですが、酸素吸入の機械が必要になってしまったので新しい家だと難しいことが多く、どこで療養したいのか母の本心を訊ねました。そして、母の希望でこのアトリエにベッドを入れることになりました。
病状が悪化してからホスピスに本格入院するまでは、結果的には約3ヶ月という短い時間でしたが・・・ほぼ私一人で在宅看護することになりました。
途中、足の骨に転移してしまったことがわかり、車椅子がくるまでは抱きかかえての移動など・・・部屋の中だけとはいえ、24時間ずっと神経をはりつめた状態を経験しました。
また、わけがわからない誤解が生じて兄と心が通わない状況だったため、つらく残念なこともたくさんあり、これ以上ない緊張感のなかで過ごした時間でした。
 
この時期は、母の体調の変化をみては、毎日が命にかかわる「何をどう選択するか?」でした。
そうした窮地に追い込まれると妙に冷静になる自分がいて、ひとつひとつのことを乗り越えていきました。
それは今思えば、閉じていた霊的感受性を全開にして、見えない世界からのメッセージを受け取り選択していく、という姿勢でした。
誰にも訊ねることができない時、「偶然」と思われるような出来事の中で「必要な答え」が得られるものなのです。
あらゆることに目を向け、感覚を研ぎ澄まして過ごしていると、シンクロニシティは日常生活の中にあふれていることに私は気づきました。
そして限られた時間の中で、母が会いたいと思う母の友人の方々に、どういう順番で来てもらうか?
母の本心はどうなのか?それを読み、母の言っていることと本心とを見抜いていくことを無意識のうちにしている自分がいました。
 
 
 
 
 
 
例えば、母から「彼女には心配をかけたくないので伝えないで」と言われていたものの、その言葉に違和感を感じ、母には内緒で40年来付き合いである姉妹のような大切なメキシコ人の友人に連絡したのでした。
日本まで会いに来てくれた彼女と病室で再会しハグした場面はまるで映画のようでした。
 
そして。版画家・今井俊さんのメキシコのマリア様が描かれた作品を母に見せたくて、俊さんに連絡を取りお願いしてみたら、みちるさんと一緒にご夫婦で房総からはるばる持って来て下さったこと。 
大きな屏風に描かれた版画作品が飾られた病室は1日だけのギャラリーになり、看護婦さんたちも入れ替わり立ち代わり母の病室へ版画を観にきてくれたりしました。
この時、ちょうど同じタイミングでメキシコから来ていた先述の友人と俊さん・みちるさん夫妻を引き合わせることにもなり、思いがけずメキシコ話で盛り上がる時間にもなったのでした。
 
また、こんなこともありました。今は日本フィルハーモニーの理事になられた後藤悠仁さんが、当時はまだ現役ヴィオラ奏者だったので、親しかった奥さんの文子さんに無理を承知でお願いしたら、快く快諾してくださり・・・ホスピスのサロンでミニ演奏会を催すことができたのです。
ヴィオラ演奏を他の患者さんと共に素敵な時間を過ごせたこと・・・。
 
ホスピス入院中、こうして関わってくれた方々のご好意で、たくさんの貴重なキラキラした時間を過ごすことができました。
(皆さんには本当に感謝しています。ありがとうございました)
 
早すぎず、遅すぎない。すべてにおいてタイミングをつかんで迷わず行動を起こしていきました。
その当時、ソーシャルワーカー室長の方に「りえさん、全てタイミングの掴み方が完璧なの。どうして?」と真剣に質問され、答えに困ったこともありましたが・・・(泣笑)
しかしこうしたことも、私自身が持っている質を無意識のうちに生かしていたからだったと今ならわかるのです。
 
 
 
 
又、命を終えていく人間が変化していく「鋭敏となった感覚」を目の当たりにしていく経験でもありました。
人はタイムリミットが近づいてくると、それこそ閉じていた感覚を開くのでしょうか・・・。
動けなくなってゆく肉体に反して意識がどこまで広がるのか、すべてを見通しているのでは?と思うような母の発言にはハッとさせられる日々でした。
そうした状態は自分がその時になってみないとわかりませんが、この時母が発言したことは兄嫁についてでした。
とても複雑な性質を持つ彼女には、兄と結婚後ずっと混乱させられることが多くありました。
感覚が鋭敏になっている母が話す兄嫁についてのことはとても重要なことでした。もし、それが本当なら全てがひっくり返ってしまうほどのことです。今はまだ何もわかりませんが・・・そのうちに真実を知る時が来るように思えます。
 
 
 
 

 
 
 
そしてー
母がこの世を旅立っていくときに起きたこと。葬儀の間に起きた不思議な出来事、葬儀を終えてもなお日々感じる母の気配。
それは紛れもなく、肉体のなくなりつつある母と、肉体から抜け出した後の母が采配しているという感覚でした。
 
 
旅立つ前日。
病室で母の好きな緑茶を淹れようとしたら、缶から急須に入れるには最後の1杯となってしまいました。
その時、一瞬妙な予感が胸をよぎる感覚があったのですが、「家に帰ればまだストックはあるのだから大丈夫。」と自分に言い聞かせながら母にもそう伝えたのを覚えています。
 
そしてこの日は、ボランティアで不定期に尼僧さんが来るということで、看護婦さんから「お話されたい方は時間になったらサロンへ行かれてみてくださいね」と言われてました。
その時、私は兄と心が通わなかった状態が苦しく、母がそのことで成仏できなかったらどうしよう?という思いでいっぱいいっぱいで、そんな話をちょっとだけでも吐き出せたらと・・時間を少しずらして行ってみました。
ちょうど、誰もいなくなっていたので落ち着いて話をすることができました。
尼僧さんから「あとでお部屋へ行って、お母様とお会いしていいですか?」と言われ、「ぜひ」と答えました。
夕食を終えてしばらくした頃、その尼僧さんが来てくれました。そして、母と会ってびっくりしているのです。
「以前にもお会いしましたね・・。縁があったのですね」と。
どうやら、母が元気に一人でホスピス外来へ通院していた時に一度会っていたのでした。ホスピスで2回会う人は初めてのことのようでした。(それはそうですね・・ホスピスですから・・・)
この時、部屋にはメキシコのものをたくさん飾っていました。それを見て、尼僧さんから色々な質問されメキシコの話になり、本来の母の姿に戻ったのです。
そしてこの時、尼僧さんから「コンドルは飛んでゆく」をオカリナで吹いてくれるというサプライズがあり、演奏のクライマックスでソファーに座っている母が両手を上げてコンドルが羽ばたく動きをしたのでした。
すでに身体を動かすことは難しかった状態だったはずなのに・・と私はびっくりしていました。
その翌日、昏睡状態になったのでした。
今思えば・・・それは母の魂が俗世から解き放たれた瞬間だったのでは、と感じています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この時、私はすでに看病疲れで母の主治医からドクターストップがかかっている状態でした。
この数日前の朝、病院へ向かう途中、車の運転中に危ない思いをしたばかりでした。
そんなことは知らないはずなのに、その夜自宅に帰ろうとする私に向かって母は「明日は起きれないかもしれないから、りえ・・・運転くれぐれも気をつけてゆっくり来てね」と言うのです。
続けて「クイクイはかわいそうね。ずっとお留守番だから・・」とも・・・。
このホスピスにはペットを連れて来てもよかったのですが、クイクイにとっては知らない人がたくさん出入りする病室に長時間いるのはストレスになるだろうと、連れてくるのは控えていました。
その時は、帰る支度をしていたので何気なく聞き流してしまったのですが、「妙なこと言うなぁ・・・」と思ったことも覚えています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、旅立ちの日。
 
朝、病院から電話がかかってきました。
「もう危ない状態なので、すぐに来てください。りえさんは今夜泊まる手続きをされて下さい」ということでした。
病院に会いにきた親戚が夕方になって全員帰って行き、偶然の流れで甥と2人になりました。
甥も帰ろうとしたのですが、なぜか兄が甥の車のキーを持ったまま叔母を送りに行ってしまったため帰るに帰れず、昏睡状態の母のそばで甥と一緒に過ごす思いがけない時間になりました。
兄一家と誤解が生じていてギクシャクしていた関係だったので、それまで甥ともあまり話ができていなかったのですが、不思議と緩やかな空気が流れて自然にいろいろと話ができたのです。それは、まるで母が私の中へ入って話しているような感覚でした。
話す内容も甥に対してにしかわからないもので、「ヒロコさんはそう言ってたよ」と甥に言いながら、私は心の中で「え?そんなこと言ってたかな?」と思いながらも会話が止まらないのです。
甥は甥で言われたことに対する自分の本音を吐き出し、それを聞いてまた私が答える、というものでした。母と甥は本当に気が合う仲の良い関係だったので、母の心残りは孫である彼に対して話した内容そのものだったと思うのです。2人で話すべきことを全て話終えた時、兄が病室へ戻ってきました。
 
兄と甥はこのまま病室にいるのかと思っていたのですが、2人は帰ると言います。
「ん?」と思いつつも何も言えず、止めることはできませんでした。
 
しかし、兄と甥が帰って行ってすぐ容態が急変し、看護婦さんに「お兄さんを呼び戻してください」と言われ、すぐ携帯に連絡したのです。2人が戻って来る間、なんとなく私は「まったく、わかってないわね~!」という母の意識を感じていました。(苦笑)
私はその後すぐ、いちばんの親友に電話をして、クイクイのことをお願いしていました。
戻ってきた兄と甥は看護婦さんに言われて母の手足をさすっていました。
「ああ、お母さんが見送って欲しかったのはこの2人だったんだな・・」と思いながら、私は電話をしていた状態だったので、私の親友もクイクイも看取りに立ち会っているような状況でした。
この間のことは私にはスローモーションのように見えていたことをよく覚えています。
「あぁ・・・、お母さんはクイクイを一晩お留守番させることにならなようにしてくれたんだな・・・」とも思いました。
そして、そのまま母は息を引き取りました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この夜、母は兄が建てた新しい家へ帰って行くことになりました。
私は病室にあるものを全部引き上げるため、本来なら真夜中に1人で辛い荷造りをしなければならないところでした。ですが、甥がいてくれたおかげで手伝ってもらえ早く終えることができたのです。2人して穏やかに会話しながら、重い荷物は持ってもらえたり、2台の車に分けて運ぶことができたので、全ての荷物を一度に持ち帰ることができたのでした。
前を走る甥の車を見ながら「あぁ、これもセニョーラの計らいだな・・・」と、思いました。
それは、初めてホスピスに見学に行った時、私が母に「お母さんが死んだら、この道を私は一人で運転して帰るの嫌だな~」と言ったのです。
その会話は入院してからリアルに迫ってきていたので、母の病室から帰るたびに運転しながら思い出していたのでした。
でも、甥がいて前を走っていてくれる・・こうした流れを心の中でかみしめながら、看取ってすぐの真夜中の運転でも落ち着いた気持ちで帰途へ着くことができました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葬儀は、あれだけ意思疎通できなかった兄が元の兄へ戻ったことから始まりました。
親類一同が集まり、兄が葬儀についての連絡事項を話している時に、少し離れた場所で兄嫁がいつもの如く変な言動をしました。突然大きな声で叫ぶ感じになるので、みんなびっくりして一斉に兄嫁の方を注目することになり、話は中断されてしまうのです。
 
(これは、数十年に及ぶいつものパターンで・・・いつしか誰もそのことで注意する人はいなくなっていました)
 
しかしその時、兄がすかさず叱ったのです。何十年ぶりの出来事でしょう・・・?
兄嫁は押し黙り、静かになりました。それから葬儀までの間、母のいる3階の新居に姿をあらわすことはありませんでした。
そこから、以前のように普通に兄妹の会話ができるようになり、何よりも驚いたのは、葬儀社の方との打ち合わせの中で兄が「喪主である私の隣は妹にしてください」とはっきりと告げたことでした。
通夜、告別式と私は兄の隣で過ごすことになりました。当然、夫婦に間違われる場合もあったのですが、顔がそっくりなので(笑)・・・「いえ、兄妹です」と、葬儀に来てくださった方々へスムーズにご挨拶することができたのです。
こうして、葬儀の間ずっと兄と共に動き、話すべき人と話すようになっていたり、その逆もあったり。
それを母が嬉しそうに斜め上の方から見ている様子を感じてました。
葬儀には、近所の方々をはじめ兄の仕事関係の人が予想以上にたくさん来てくださったので、兄嫁の言動が他人に及ぼさないよう、母は兄を守ったんだな・・とあとになって気づきました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
告別式を終え、焼き場での不思議な出来事もありました。
待つ間に用意されたテーブルで、通夜・告別式にお経を上げてくれた若いお坊さんと席が一緒になりました。
「実は、お伝えしたいことがあったのです」と、話しかけられました。
一体なんのことだろう?と思って話を伺うと・・・お通夜の時に時計を忘れてしまったことに途中で気づいて困ったということでした。予想以上の参列者に、お経を上げながら背後で様子を窺いつついると、目の前にある母の腕時計に気づいたというのです。
それは、母が身につけていたメキシコ銀細工ベルトの腕時計をお供え物の横にそっと置いたものでした。
その時計が動いていることを確認してお経を調整することができて事なきを得たと、「お母様に助けられました」と若いお坊さんは話しました。
そんなこともあるのかと、でもセニョーラらしいエピソードだなと笑ったのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こうして、看取るまでの怒涛の日々と、葬儀をすべて終えるまでのことは今思い返しても本当にあっという間でした。
いまでも不思議に思う出来事がフッと甦る時があります。
身内を亡くした人と話すと共通することもあるので、どれも本当に起きたことなのだと。
それは、きっと自分が死ぬ時になってわかることなのでしょう。
 
私はなんだかそれを楽しみにしているような気がしています。
 
 
 
 
 
 
 
***
 
 
 
 
 
おいらはずっとお留守番にゃったけど
ずっとセニョーラヒロコのエネルギーを感じていたニャ☆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018/10/09

Rie’s Episode:7

~自分自身を受け入れるということ~

 
 悩みを抱える人と向き合う・・・。
実は、このことを決心するまでに考えようによっては20年以上の歳月がかかっています。
でも覚悟を決めたのは、母を見送り、年齢が人生の折り返し地点を過ぎたこと。
そうしたタイミングの中で私自身が「生命の樹」で自分自身を知り、持って生まれてきたものを理解すると、これまで経験してきた数々の不思議な物事がストンと腑に落ちたからでした。
 
 
 
***
 
 
 企業のジュエリーデザイナーからジュエリー作家へ転身したことは、自分で決めた事とは言え平坦な道のりではありませんでした。
優雅に簡単に個展をしているだけのように見えるらしいのですが(笑)、
現実はそんなものではなく・・・すべて手探りで、いろいろなやり方を試行錯誤しながら道なき道を進んできました。
「創作」ということ自体が「無から有を生み出すこと」であり、ゼロから1にすることがいちばんエネルギーを要するということ。
これは、カバラに関する書物から知ったことです。
私はそんなことは全く意識することなく、ただただジュエリーを生み出してきました。
らず知らずのうちに「目に見えない世界」に対して感覚を研ぎ澄ましていったのかもしれません。
・・・元から持っている資質なんてことは一切考えたことはないまま。
 
そして、個展に来る人たちの中には、純粋にジュエリーを求めてくださる方だけではなく・・・
なぜかバランスを崩した人というか、精神的に不安定な人が常識的な限度を越えて接近してくることが多々ありました。
みんな見た目はごく普通の若い女性で、はじめはジュエリー作品を好きになってくれて、気に入ったジュエリーを購入してファンレターをくれたりすることから始まるのですが、そのうち個人的に電話を掛けてきたり、自宅まで来てしまったり、弟子入りを希望してきたり・・・!
近づいてきてはだんだんと不安定な心を見せてきて、中にはリストカットしていることなど打ち明けてくる子もいました。
私自身まだ20代で、ジュエリー作家としての一歩を踏み出したばかりの一生懸命な時期です。
その人たちがなぜそうなってしまうのか全く理解できず、混乱させられることばかりでした。
 
 
 
 
 
そうしたことは、30代になって多摩御陵の参道沿いにアトリエを構えてからも続きました。
”大正天皇・昭和天皇のお墓”である多摩御陵・武蔵陵という特別な場所柄のせいもあったと思います。
ここは1Fをカフェギャラリーにしていたこともあり、男女年齢問わずお客様として来る人々の中には宗教的な人も多く、やはり中にはそうした敏感な人たちがいて、なぜか私のジュエリー作品に妙な反応をしてしまうのです。
春先など季節の変わり目などには、バランスを崩した不安定な人が立て続けにあらわれることがありました。
 
 
 
なんでだろうか・・・?と疑問に思いながらも
ただ私が感じたのは、その人たちはとても純粋で敏感で繊細過ぎるんだろうな、ということ。
石から得るインスピレーションから透明な気持ちで生み出された作品の・・・石が何かを発していて、それが作品に触れる人々の心に響くのかな、と。
その時には、そこまでしか理解できませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
また、なぜか同世代の友人たちよりも「人の自死」ということに向き合わざるを得ない状況を経験してきました。
会社員時代の同僚から始まり、もしかすると私のことを想ってくれていた男性、そして彫金教室に来ていた母の知人の娘さん・・・。
それは、夢を通して見ることが多く、亡くなった人たちが「夢」を通して訴えてくることや、「夢」を超えてどうしても理解し難い不思議な「霊的現象のようなもの」を体験してきました。
時には、死んでいる人だけではなく、生きている人の思念を見ることもあり、表面上いくら良い人に見せていても、その人の本心を夢で垣間見てしまうこともありました。
残念な人間関係の終わりを迎える度に、夢で見ていたことを思い出し、自分がわかっていたことに後から気づくこともよくありました。
亡くなった人が夢に出てくることに、はじめは本当に戸惑っていましたが、受け取ったメッセージを遺族の方へ伝えると「霊的現象のようなもの」は収まることがわかりました。
 
 
 
 
 
 
彫金教室に来ていた子が亡くなった頃は、ちょうど世間では”スピリチュアル”といわれることが流行り出した時代でした。
そうした、いわゆる”スピリチュアルに傾倒する人々”がカフェギャラリーにも来るようになりました。
その時は「霊現象のようなもの」に本当に困っていたので、その人たちに紹介された「目に見えない世界」についてわかる人らしき人へ相談してみたりもしました。
しかし、こちらがお金を払って相談しているにもかかわらず、相手が悩みを打ち明けてきたり、いきなり「先生」と呼ばれたり(笑)、なぜか相手にアドバイスすることになったり・・・わけがわからない状況になるばかりでした。
この”スピリチュアルな人たち”は、おおよそ時間が経つとどこかちぐはぐな行動や言動になっていくことに気づきました。何かというと「前世」や「守護霊」など、目に見えないもののせいにするばかりなのです。
関わっていくうちに違和感を感じながらも、頭から否定しないように私なりに気をつけて接するのですが(苦笑)、あまりにも矛盾したことばかり言うので、そこを指摘して追求すると怖がって逃げて行くのです。
だいたい社会一般的に必要な常識・礼節が欠けている人が多く、「愛」や「平和」を口にするわりに利己的でずる賢い人もいて、他人を利用しようとする。
要するに「現実に起きた物事」に対して、自分に都合よく解釈するばかりで「現実的に向き合って解決すること」への努力をしないので、とんちんかんなズレを生じていくのです。
関わるたびに苛立ちを覚え、その人たちに共通している一種独特の性質に嫌悪感を持つようにもなりました。
 
それで、いわゆる”スピリチュアル”というものから敢えて距離を置くことにしたのでした。
 
その時心に決めたのは、「目に見えない世界」より「目に見えるこの現実世界」だけを見ていこう。
ジュエリー作家としてとにかく作品創作を大切にして生きていこう、というものでした。
貴石・半貴石を使う”ジュエリー”というもの自体に呪術的な要素があることは認識していましたが、その時から私は霊的感受性を閉じて、他人には一切そうしたことは口にせず過ごしてきました。
 
 
 
 
 
 
 
 
しかし・・・
生まれる時に自分自身で決めてきたことはその道から外れそうになると引き戻される。
自分自身にとっての人生の課題というものは拒否していると乗り越えるまで同じようなことが起こり続けるものです。
 
 
 
普通に購入してジュエリー作品から純粋にエネルギーを受け取ってもらえればいいのですが、それ以上に私自身に依存してきてエネルギーを欲しがるような人への対応はわからないまま時は過ぎていきました。
 
 
 
 
           
 
 
 
 
 
 
 
母が亡くなって1年後。
母の遺言を果たすためのメキシコ旅行がきっかけとなり、私は自分の「生命の樹」を知ることになりました。→ Rie’s Episode:4参照
 
 
結果、悩みを打ち明けてくる人々と関わることは逃れることのできない宿命的なものだとわかりました。
それは、私の持つ本質が「調和」というものであること。
バランスを整える力を持っているのです。
それは「人」や「場」に対して力を発揮するものであり、元に戻すことができる力。
「本質」というものは、何も意識することなくできる力なのです。
よくお客様から「りえさんと会って元気になれました」「パワーをもらえました」とか、多摩御陵時代のアトリエも現在のアトリエも「居心地がいい」と言われるのは、この私の持つ本質の力だったのかもしれません。
そして、霊的感受性は生まれ持った潜在的なものであることがわかりました。
 
(私はただ普通にジュエリーを創作していたい。でも、そうはいかない・・・?)
 
私の「生命の樹」を解いたKさんからは、「普通の人は”そうなりたい”と思って努力してなるものなの。でも、りえさんは”すでにできている人”であり、”なるべき人”なの」と何度も言われました。
その時はその言葉の意味がまったくわからなかったのですが、なぜか私は「解き方を教わります」と答え、札幌まで行ってマンツーマンで伝授してもらうことになったのです。
基本だけを教わり、「りえさんには教えることってないの」「りえさんオリジナルの”生命の樹”になると思う」と何度も言われました。
 
(「なんで?」「何のこと?」と思った私。(笑))
 
しかしKさんの言葉通り、私は「カバラ」に加えて、母の遺した数々の本から独学で「マヤ文明」を学び、マヤを組み合わせたオリジナルの「生命の樹」として解けるようになっていったのです。
 
そして、私独自の方法で自分自身を紐解いた結果、さらにわかったことは私の「本質」である「調和」がトリプルあることでした。つまり人の3倍その力を持っているのです。
よって・・・「バランスを崩した人が”無意識”のうちにバランスを整えてもらいたくて私の元へ来てしまう」ということがわかりました。
今までことは避けられないことだったと理解できました。
こうして自分を知った時、これまで自分自身に起きてきた出来事がすべて腑に落ちたのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
人は持って生まれた「自分自身の資質を知ること」で私のように納得するのではないか?
人生の中で辛いことに遭遇した時、自分のことを理解すれば壁を乗り越えていけるのではないだろうか?
バランスを崩してしまった時には自分はどうなってしまうのか、自分の資質の両面を知ることでバランスを取り戻して、自分の人生を生きていきやすくできるのではないか?
 
何よりも、「生命の樹」を紐解くことで、私に依存させることなく、その人に起きた問題への解決策に導けるツールになるのかもしれない、と考え、私は「生命の樹」を解くことを決心しました。
    
 
そう決めた途端、依頼してくる人が現れ続けました。
そのうちに「生命の樹」を紐解くことは、ジュエリーを生み出すことと同じエネルギーを使うことだということもわかってきて、これは「ジュエリー作家」の同一線上にあるものだと気づきました。
そして、これまで解いてきた「生命の樹」の中に、私と同じ本質を持つ人は1人も現れないということにも。
・・・Kさんに言われたことが頭をよぎります。
 
「普通の人は”そうなりたい”と思って努力してなるものなの。でも、りえさんは”すでにできている人”であり、”なるべき人”なの」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「生命の樹」を解く。
これは、私が私自身を受け入れたことへの最初の一歩となった出来事でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 

2018/01/18

Rie’s Episode:6

 
 
 
改めて「石」の「意志」を心から実感した不思議な出来事もありました。
 
 
 
 
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私は、その年の”夏のジュエリー展”のために根を詰めて制作していたことがたたって、気づけば両手はひどい痛みで腱鞘炎になっていました。
展示会が終わってからは治療に専念し、両手はギプス状態で何もできない日々を過ごしていました。
そんなある日、いつも行くお花屋さんから電話がきたのです。「吉田さん、2度目で悪いんだけど、もう一度だけ確認して欲しいと言われて・・・」
その話は、確かに去年も訊かれたことでした。
それは・・・そのお花屋さんに来る常連客のKさんという方から「亡くなった奥さんの石のコレクションを譲り受けて欲しい」というものでした。
最初にお話を頂いた時、私は「見ず知らずの人から譲り受けるなんて」「しかも素人の人が集めた石を?(←コレ、今から思うととても傲慢なのデス・・・汗)」という複雑な思いが浮かんで、そのときはスケジュール的に忙しかった時期でもあり、深く考えもせずその場でお断りしました。
それから1年経って、同じ話がもう一度きたのでした。
お花屋さんも自分の仕事で忙しいはずなのに、わざわざまた電話をかけてくるなんて「よっぽどのことなんだな」と思った私は、両手ギプスでまったく仕事ができない状態だったこともあり、「そうなんですね・・・じゃ、その方に連絡してみます」と答えました。すぐ教えてもらった連絡先に電話をして、Kさんと会うことになったのです。
 
翌日。
会いに行った場所は”ケア付き老人ホーム”でした。受付を済ませて中へ入ると・・・
そこは、まるで会員制高級ホテルのようでした。広いロビーにゆったりしたソファ、天井は高く明るくて、窓辺にはいくつかの台がありビリヤードを楽しんでいるおじいさんたちがいるのです。そうした場所に初めて足を踏み入れた私は、想像していたのと全く違うことに驚いてしまいました。
びっくりしてボーっと立っていた私に一人のおじいさんが「吉田さんですか?」と声を掛けてきました。
こうして、Kさんと対面し、応接室に通され、亡くなった奥さんがコレクションしたというルース(裸石)を見せてもらうことに。
Kさんは「石をお見せする前に、これを差し上げます」と言って1冊の本を私に手渡しました。その本には「しずこの俳句」と題名が書かれていました。
それは奥さんの趣味だった俳句や詩、イラストやデッサン、油絵、また刺繍などの作品を1冊の本にまとめたものでした。
その中には、これから見せてもらうことになっているルースのコレクション写真もありました。
終わりの方のページには、しずこさん自身の写真と最後にプロフィールが載っていました。読むと”昭和〇〇年 文部事務次官退職”との文字が。「あら~、そういう人だったのか・・・」と思い、この場所に納得いくような気持になりました。
写真のしずこさんはとても上品で落ち着いた静かな雰囲気の、でもどこか凛とした空気を放つ女性でした。
 
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そして、Kさんはテーブルの上に重ねてあった箱を開けて、奥さんのコレクションした石を見せてくれたのです。
私は「これが、しずこさんが集めた石なんだ・・・」と思いながら見入ってしまいました。
それは、ほとんどが半貴石と呼ばれるものでした。すべてのケースには、しずこさん自身が書いたであろうと思われる字で、丁寧に石の名前や特徴、採取地などが記されていました。
中には名前だけは聞いたことがある、といっためずらしい石もありました。コレクションは”宝石”と呼ばれる石は少なく・・・本当に石が好きな人が集めたというものでした。
Kさんはこれまでもあちこち譲り受けてくれそうな業者などを探したらしいのですが、「宝石じゃないから引き取れない」って言われ困っていたようでした。
でも目の前にある石たちは、まさに私の作品にぴったりとくるものばかり・・・!
「どうですか?譲り受けてくれますか?」と言われ、私は「はい、ぜひ。」と答えていました。
 
こうして、しずこさんのコレクションを譲り受けた私は、その年の秋に控えている個展の新作をこの石たちで創ってみようと思いました。
 
 
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新作ジュエリーに取り掛かるとき、まず最初にするのはルースを選ぶこと。・・・というより、石の声を聴くことから始めます。
ルースの入ったケースをすべて並べて、静かに見渡しながらスーッと感覚を研ぎ澄ますと、「作品になりたい!」という石が意思表示をするのです。それをチョイスしていくことが創作の第一段階。
その後、デザインしていく時にも選んだ石たちの声を聴いていきます。これは、Episode:5に書いた通りです。
だいたいが何も考えず無意識に描いた最初のデザインが基本となり、そこから納得いくまでパターンを何通りも描いていきます。
スケッチブック数ページになることもあれば、早々と決まる時もあります。デザインが決まる瞬間のピタッとくるその感覚はとても不思議で、「これだ!」という揺るぎない感覚になるもの。それがきっと「石の声」なのでしょう。
”ジュエリー展”として新作ペンダントを発表する数は、近年おおよそ5点~10点。こうした感覚でひとつひとつデザインしていくと、不思議なことにその時々の新作シリーズに共通するデザイン性が決まるという流れになるのでした。
 
しかし、それは私がこれまで好きで買い付けた石たちを扱ってきた手法。
しずこさんが集めた石たちを同じ方法で選んでみましたが、「本当にそうかな?」という疑問が少し残りました。
そこで、個展を企画してくれたギャラリーのオーナーにも訊いてみることに。
私が選び出した石と共にいくつかの石をランダムに加えて持って行きました。その石たちを並べて、オーナーに「気になる石を4つ選んでください」と頼みました。
新作は5つ創作する予定でした。DMにする作品はすでに完成しているので、あと4つなのです。
オーナーは「なに、なに?吉田さん?」と言いつつも、男性らしくとても冷静に真剣に選んでくれました。
すると・・・!私が選んだ石とまったく同じ4つをチョイスしたのです。
これには、本当に驚きました。でも心のどこかで「やっぱり・・・!」という思いもありました。
中には、制作するのに少々手が掛かるであろうと思われる石もありました。私なら絶対に買い付けないカットの石です・・・。
「でも観念しないとな~」と思った瞬間をよく覚えています。(笑)
そう。やっぱり「石」の「意志」はあるのです。
                                                    
 
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その秋の個展ではしずこさんの石たちを使った新作ジュエリーを発表しました。
KさんにはDMに「譲り受けた石たちを使いました」と書き、お知らせだけするつもりでご案内しました。
すると、思いがけずギャラリーに来てくれたのです。あのホームからは遠い場所にあるギャラリーだったので、私はびっくりしました。でも、びっくりしていたのはKさんの方でした。
「吉田さん、まさかこんなに早く作品にしてくれるとは思っていませんでした。実は、明日は妻の十七回忌なのです」と言われ、今度は私の方がさらにびっくり・・・!
Kさんは「法事に集まってくれる人たちに見せたい」と、しずこさんの石で創ったジュエリーの写真を撮って帰られました。
 
 
 
 
 
この出来事は、私の中でも心に強く残る経験になりました。
実は制作していた時、しずこさんの気配を感じることがあったのです。それはとてもワクワクしている様子で作業台のそばにいて、「次はどうなるの?」と言いながら、制作していく工程を見られているような感じでした。
この時の新作のデザインはどれもスッと早々描けたのですが、とても手がかかる工程が多く、普段と違うエネルギーを使っている感覚でした。それでも忠実に丁寧にひとつひとつデザイン通りに制作していきました。
この時、自宅へ帰る度に、その頃まだ生きていたセニョーラヒロコに、「りえ、なんだかやつれて〝鶴の恩返し”の”おつう”みたいよ。大丈夫?」と言われるほど。「おつうって!?でも、まさに。創る姿は見ないでください・・・って感じだよ。(泣笑)」と、自分でも毎日ヘトヘトになっていたのを覚えています。
 
 
 
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後日、お花屋さんにKさんが個展を観に来てくれたこと、そして奥さんの十七回忌だったことを話すと、カラッとしているキャラクターのお花屋さんに「それは、いい供養になったね~!吉田さん!」とサクッと言われ、「なるほどね・・・(苦笑)」と思った私。
 
 
改めて、しずこさんの思いと、石たちの「意志」に素直に従って動いた自分を認識しました。
後になって思えば・・・このことは、未来の私=現在の私へとつながる大切な出来事のひとつになったのでした。
 
 
 
 
 
~Pensamiento de piedra~
 
 
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しずこさんがコレクションしたルースで創作した作品だけの個展をすることが、人生の目標のひとつになりました。